ヴィルヘルム・ハンマースホイとは
ヴィルヘルム・ハンマースホイ「二人の人物像(画家とその妻)、あるいは二重肖像画」 1898年
ヴィルヘルム・ハンマースホイ(ハマスホイ)とは、19世紀末から20世紀初頭に活躍したデンマークを代表する画家の一人です。
1864年に、コペンハーゲンの裕福な家庭に生まれ、1914年に、咽頭癌で亡くなります。
生前は、伝統的な画法を重んじるアカデミーとは一線を画し、仲間とともに「分離派」として活動。
陰鬱で薄闇をまとうような独特の画風に、国内では批判が強かったものの、ヨーロッパでは高い評価を受けます。
ハンマースホイは、没後、しばらくのあいだは忘れ去られるも、近年オルセー美術館やハンブルク美術館、グッゲンハイム美術館などで回顧展が開かれたことがきっかけで再評価の機運が高まり、2008年には、日本でアジア初となる大規模な回顧展を開催。2020年には、再び東京、山口で回顧展が開かれることになります。
ハンマースホイの作風は、うつろな眼差しや後ろ姿の肖像画、薄曇りの建造物、そして、「北欧のフェルメール」とも称される室内画、特に「誰もいない室内画」の詩的な静寂が特徴的です。
誰もいない室内を描いた、初期作品の一つについて、ハンマースホイは、次のような言葉を残しています。
「私は常に、この部屋のような美を思っていた。たとえ人がいないとしても、いや正確に言えば誰もこの部屋にいないからなのだろう。」
ヴィルヘルム・ハンマースホイ「白い扉」 1888年
以下、ヴィルヘルム・ハンマースホイの細かな略歴を紹介したいと思います。
ハンマースホイの略歴
ヴィルヘルム・ハンマースホイは、1864年、デンマークのコペンハーゲンで暮らす裕福な家庭に生まれます。
息子の芸術的な才能を、幼い頃から見抜いた母フレゼレゲは、生涯に渡って息子の芸術的支援を続けます。
ハンマースホイは、8歳の頃から素描の個人レッスンに通い、15歳でコペンハーゲン王立芸術アカデミーに入学。ハンマースホイが学んだ個人レッスンも、アカデミーも、当時のデンマークの伝統的な芸術教育が基本となったものでした。
一方、アカデミーの古典的な教育に反旗を翻す若い学生たちによって1882年に設立された自由研究学校に、ハンマースホイは、アカデミーの傍ら通うようになります。
これは、その時代の多くの芸術家たちが通る道でもあり、自由研究学校は、当時のフランスの美術教育を目指していたようです。
学校に通う日々の様子について、ハンマースホイは、兄に宛てた手紙のなかで次のように記しています。
「私は毎日、朝の8時半から4時までクロイアの学校に行っています。それから急いで家に帰り、夕食を食べ、アカデミーで5時半から7時半まで素描をしています。」
同じくデンマークを代表する画家で、ハンマースホイの師でもあった、ペーター・セヴェリン・クロイアは、当時ハンマースホイの絵について、「奇妙な絵ばかり描く生徒がひとりいる。私は彼のことを理解はできないが、重要な画家になるだろうことはわかっている。彼に影響を与えないように気をつけることとしよう」と語っています。
ハンマースホイが公の評価を受けるきっかけとなったのは、1885年、彼がまだ21歳の頃のことです。美術アカデミーが毎年主催する展示会に、ハンマースホイは初めて絵を出品します。
出品された絵は、二つ下の妹を描いた肖像画、「若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ」です。
ヴィルヘルム・ハンマースホイ「若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ」 1885年
この作品を、アカデミー主催のノイハウス賞に応募するも、暗い色調や構図、不明瞭な遠近法などが、伝統的なアカデミーの嗜好に合わず落選します。しかし、この結果に、自由研究学校の若い画学生たちが反発し、論争となります。
それからしばらくハンマースホイの評価を巡って論争が続いたものの、デンマーク国内ではあまり評価に恵まれず、むしろ「国外」で買い手がついたり批評家に高く評価されるようになります。
この頃、ハンマースホイは、歯科医で美術収集家だったアルフレズ・ブラムスンと出会います。ブラムスンは、1888年にハンマースホイの「縫い物をする少女」を購入。
以降、彼はハンマースホイの熱心な後援者となり、ハンマースホイの伝記を著すことにもなります。
画風に関しては、17世紀のオランダ写実主義の影響を受け、また、その室内画の多さから「フェルメール」と比較されることも多いハンマースホイ。しかし、伝統的な価値観を重んじるアカデミーでなかなか受け入れられなかったように、全体に漂う独特の陰鬱さと静寂は彼特有の魅力でもあります。
ヴィルヘルム・ハンマースホイ「居間に射す陽光Ⅲ」 1903年
ハンマースホイは、1891年、学友のピーダ・イルステズの妹であるイーダと結婚します。イーダ・イルステズは、ハンマースホイの肖像画のモデルとして幾度も登場することになります。
ヴィルヘルム・ハンマースホイ「イーダ・イルステズの肖像」 1890年頃
室内画の多くは、二人が1898年から約10年ほど暮らした「ストランゲーゼ30番地」のアパートが舞台になっています。
その後、ハンマースホイの絵の評価は、国内でも徐々に高まりを見せ、1908年にはアカデミーの総会会員に就任、1910年には同評議員になり、ヨーロッパ各国で個展も開かれるようになります。
ただ、1914年、ハンマースホイの母親が亡くなったあと、ハンマースホイ自身も体調が悪化。咽頭がんと診断され、以降、ほとんど作品を制作することなく1916年に亡くなります。死因は咽頭がんでした。
ヴィルヘルム・ハンマースホイ『ニュ・ヴェスタゲーゼから眺めたクレスチャンスボー宮殿』 1914年
以上が、画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの生涯になります。