Vilhelm Hammershøi
ヴィルヘルム・ハンマースホイの世界
ハンマースホイ

ヴィルヘルム・ハンマースホイとは

ヴィルヘルム・ハンマースホイとは

ヴィルヘルム・ハンマースホイ「二人の人物像(画家とその妻)、あるいは二重肖像画」 1898年

ヴィルヘルム・ハンマースホイ(ハマスホイ)とは、19世紀末から20世紀初頭に活躍したデンマークを代表する画家の一人です。

生前は伝統的な画法を重んじるアカデミーとは一線を画し、仲間とともに「分離派」として活動。陰鬱で薄闇をまとうような独特の画風に国内では批判が強かったものの、ヨーロッパでは高い評価を受けます。

没後、しばらくのあいだは忘れ去られるも、近年オルセー美術館やハンブルク美術館、グッゲンハイム美術館などで回顧展が開かれたことがきっかけで再評価の機運が高まり、2008年には日本でアジア初となる大規模な回顧展を開催。2020年に再び東京、山口で回顧展が開かれることになりました。

ハンマースホイの作風は、うつろな眼差しや後ろ姿の肖像画、薄曇りの建造物、そして、「北欧のフェルメール」とも称される室内画、特に「誰もいない室内画」の詩的な静寂が特徴的です。

誰もいない室内画の初期作品の一つについてハンマースホイは次のような言葉を残しています。

「私は常に、この部屋のような美を思っていた。たとえ人がいないとしても、いや正確に言えば誰もこの部屋にいないからなのだろう」

ヴィルヘルム・ハンマースホイ「白い扉」 1888年

以下、ハンマースホイの簡単な略歴を紹介したいと思います。

ハンマースホイの略歴

ヴィルヘルム・ハンマースホイは1864年、デンマークのコペンハーゲンで暮らす裕福な家庭に生まれ、息子の芸術的な才能を幼い頃から見抜いた母フレゼレゲは、生涯に渡って芸術的支援を続けます。

8歳の頃から素描の個人レッスンに通い、15歳でコペンハーゲン王立芸術アカデミーに入学。ハンマースホイが学んだ個人レッスンもアカデミーも、当時のデンマークの伝統的な芸術教育が基本となったものでした。

一方、アカデミーの古典的な教育に反旗を翻す若い学生たちによって1882年に設立された自由研究学校に、ハンマースホイはアカデミーの傍ら通うように。これはその時代の多くの芸術家たちが通る道でもあり、自由研究学校は当時のフランスの美術教育を目指していました。

学校に通う日々の様子についてハンマースホイは、兄に宛てた手紙のなかで次のように記しています。

「私は毎日、朝の8時半から4時までクロイアの学校に行っています。それから急いで家に帰り、夕食を食べ、アカデミーで5時半から7時半まで素描をしています」

同じくデンマークを代表する画家で、ハンマースホイの師でもあったペーター・セヴェリン・クロイアは当時ハンマースホイの絵について、「奇妙な絵ばかり描く生徒がひとりいる。私は彼のことを理解はできないが、重要な画家になるだろうことはわかっている。彼に影響を与えないように気をつけることとしよう」と語っています。

ハンマースホイが公の評価を受けるきっかけとなったのは、1885年、彼がまだ21歳の頃のこと。美術アカデミーが毎年主催する展示会に、ハンマースホイは初めて絵を出品します。

絵は、二つ下の妹を描いた肖像画「若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ」。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ「若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ」  1885年

この作品を、アカデミー主催のノイハウス賞に応募するも、暗い色調や構図、不明瞭な遠近法などが伝統的なアカデミーの嗜好に合わず落選。この結果に、自由研究学校の若い画学生たちが反発し、論争となります。

それからしばらくハンマースホイの評価を巡って論争が続いたものの、デンマーク国内ではあまり評価に恵まれず、むしろ国外で買い手がついたり批評家に高く評価されるようになります。

この頃、歯科医で美術収集家だったアルフレズ・ブラムスンと出会い、ブラムスンは1888年にハンマースホイの「縫い物をする少女」を購入。以降、彼はハンマースホイの熱心な後援者となり、ハンマースホイの伝記を著すことにもなります。

画風に関しては17世紀のオランダ写実主義の影響を受け、また、その室内画の多さから「フェルメール」と比較されることも多いハンマースホイですが、伝統的な価値観を重んじるアカデミーでなかなか受け入れられなかったように、全体に漂う独特の陰鬱さと静寂は彼特有の魅力でもありました。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ「居間に射す陽光Ⅲ」 1903年

ハンマースホイは、1891年、学友のピーダ・イルステズの妹であるイーダと結婚。イーダ・イルステズは、ハンマースホイの肖像画のモデルとして幾度も登場することになります。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ「イーダ・イルステズの肖像」 1890年頃

室内画の多くは、二人が1898年から約10年ほど暮らした「ストランゲーゼ30番地」のアパートが舞台になっています。

その後、ハンマースホイの絵の評価は国内でも徐々に高まりを見せ、1908年にはアカデミーの総会会員に就任、1910年には同評議員に。ヨーロッパ各国で個展も開かれるようになります。

ただ、1914年、ハンマースホイの母親が亡くなったあと、ハンマースホイ自身も体調が悪化、咽頭がんと診断され、以降、ほとんど作品を制作することなく1916年に亡くなります。

ハンマースホイヴィルヘルム・ハンマースホイ『ニュ・ヴェスタゲーゼから眺めたクレスチャンスボー宮殿』 1914年

 

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